引越し・大きな変化
4歳から父の仕事の関係で小学生までの8年間、北海道で暮らしました。
中学生になるタイミングで、それまでの家族5人の生活から父は単身赴任、私たちは母方の実家、福岡 で祖父母と同居、その一年後には片麻痺の祖々母も同居という大家族になりました。
私は中学1年生、多感な時期でもあり、他人と自分を比べてしまうお年頃。
そして大人になってわかりましたが、私は敏感タイプ。今で言う敏感ちゃんだったんですね。
なので、小さな田舎の中学校に小学校からエスカレート式で上がってきたお友達の輪に入るのはかなりの苦戦でした。
最初は北海道からの転校生ということで、どの子にも物珍しさから話しかけられめちゃくちゃ恥ずかしかったのを覚えています。
消えてしまいたい…
運動は、個人種目(マラソン、プール)はできても、球技がダメダメだった私。
その学校は運動ができる子が多く気後れ、プラス自分から話しかけていくことに抵抗を感じていました。
この時期、自分の運動音痴を自覚した時期でもありました。
それもあり、お友達と仲良くするよりも勉強の面白さや読書に段々とのめり込んでいきました。
小学6年生の頃は、担任の先生の影響で沢山のお友達と仲良くできていたのに、 また素の自分に戻ってしまった・・・という半ばがっかりした気持ちにもなりました。
教室では徐々に、みんなから見られる目が仲間外れをされているかのようでした。
生徒会役員決めでは立候補に名前が上がり、私は全然したくなかったのにさせられ、私的にはいじめだと思いました。
母は祖父母の仕事の手伝いと大家族の家事を担当、父は単身赴任で不在。
母には心配をかけさせてはいけないと思い、相談できませんでした。
大好きだった祖々母は中学2年生の夏に亡くなりました。
祖々母の死をきっかけに、以前大好きだった習い事の先生の突然の死も思い出し 「私の大切な人はいつもいきなりこの世を去っていってしまう。」悲しい気持ちになりました。
そんな気持ちも相まって、自分の存在意義がぐらぐらと音を立てて壊れていくようでした・・・
中学校でも話すお友達は限られ、休みの日も自宅で過ごす淡々とした生活。
「私は何のために生きているのだろう・・・」とさえ思うこともありました。
中学校の往復で通る電車の踏切の前で「線路に身を投げようかな…・」と思ったことは一度二度ではありませんでした。
そんなある日、よくはまって読んでいた 「山田詠美さんの小説」で心が救われました。
小説の中の少女も私のように日々、友達関係や将来に悩む中学生でした。
その子も毎日生きている感覚がなく、 「自分の存在ってなんだろう? 生きていてもしょうがないんじゃないのか? 」と考えていました。
ある日「死」を考えます。
消えてしまいたい。
しかしその瞬間、ふと家族の存在を感じます。
言葉では伝えられないけれど、 その生活の場の雰囲気が温かいことに気づいた少女。
「自分はこの家族がいる!お友達関係や将来どうでもなる!」と気づいた場面。
その瞬間、私の体にもビビッと電気が走りました!!
「あ!」「私と同じ!!!」
心の声が響きました。
小説の少女と想いが重なったのです。
私には家族がいるじゃないか!!
私を産んでくれた母、大変な育児の中育ててくれたのに・・・ 自分だけが幸せと思えていなかったんだ・・・。
こんな自分でも生きていていいんだ! 生きよう!と思い始めたのでした。
死を踏みとどまりました。
それからは親に迷惑をかけまいと公立高校を選び、猛烈に勉強をしました。
そして無事に高校に合格できました。
自分のやりたいことって何だろう?
進路を本格的に考え始めた高2の夏。
自分の誕生の出来事から看護師になった方がいいと、ずっと思っていました。
けれど、いざ目指そうとした時、なんか違うような気がしてきたのです。
自分は血が苦手かも!?と思ってみたり、祖祖母のプチ介護体験から医療といえど、また違う形の関わり方はないか?と探しました。
すると進路室で見つけた「理学療法士・作業療法士」の職業名に直感で「これかも!?」となりまし た。
そしてたまたま姉の親友のお母さまが「理学療法士」ということで話を聞かせてもらいに行きました。
何もしなかったら悪化して行くかもしれない体の動きを1人の理学療法士が関わることで、寝たきり状態の人が自分で生活できるようになるという話を聞き、その劇的変化に感動しました!
その日の夜には 「これしかない!」状態になり、リハビリの世界を志すことになりました。
九州では初の医療専門学校&4年大学のダブルスクールの1期生として学校に通うことになりました。
4年間は大学生気分と専門学生の気分を味わいながらバイトと学業で過ぎました。
そしてついに待望の理学療法士になりました!