小宮山芽生のストーリー①誕生〜小学生

小宮山芽生のストーリー

初めまして!

ウィメンズヘルスケア×理学療法士の小宮山芽生(こみやまめぐみ)と言います。

現在、子ども達は長女が18歳、次女が15歳、長男が8歳です。

長女の妊娠・出産から突入した育児は
手探り状態でした。

抱っこもほぼほぼ我が子が初めだったため、何がいいのか悪いかさえもわからない子育てからスタート。

ただでさえ赤ちゃんのお世話で1日いっぱいいっぱい。

日々の生活に追われていた上に長女はよく泣く&寝ない子でした。

こうでもあーでもない、色々考えてお世話するのに大泣きされます。自分の好きなことをする時間もなく、好きな時に寝れない、そして大泣きで起こされる。

「これだけしているのに何で?」

育てにくさのあるわが子にイライラ、ずっと抱っこをしていると肩こり、腱鞘炎、添い乳の姿勢で寝かしつけるため腰痛も生じました。

体を動かして発散したくても娘連れでないと出かけられない。

夫も専業主婦なら子供を見るのは当たり前、人に預けたくても「仕事をしていないのに?」という態度。

自分の満たされないこのイライラの感情の矛先をどこに向けていいものか…

このイライラの原因を解決したくて、産後女性の心と身体、赤ちゃんの心と身体について学び始めました。

今日は、なぜ今の活動につながってきたのか、私の生い立ちのストーリーをご紹介したいと思います。

私の誕生と入院生活


12月29日、年末の忙しい日に産声を上げました。 2月の予定日のところ、ずいぶん早く生まれました。

なぜかというと、12月28日に母が家の前で転んでお尻を地面につきました。

「転倒」それはただのきっかけで29日に陣痛が始まり夕方には妊娠32週で誕生したのです。

1,400gという(平均新生児体重約3,000g)当時の医療では生存が難しいと言われながらの誕生でした。

黄疸がひどく急遽、救急病院に搬送、叔母2人からの輸血手術で、一命を助けられました。

母は自分が転倒したことや、自分分や祖母の血液では適合せず、叔母たちの力を借りることになり、「後遺症が残るかもしれない、障害を持つかもしれない。」と医師から告げられたそうです。

罪悪感・後悔の気持ちでいっぱいだったそうです。

誕生後10か月間は親と離ればなれの入院生活でした。

保育器で懸命に息をするわが子を見ながらおっぱいが湧き出るため、搾乳をしては捨ての繰り返しの母。

なんで こうなってしまったのか、自分が転んでしまったためにこんなことになってしまって、、、

母自身、自分を責める気持ちで涙、涙だったそうです。

そんなある日、病院の私に会いに行くと、母である自分よりも毎日お世話してくれる看護師さんの後ろに隠れてしまったそうです。自分よりも看護師さんを選ばれたという衝撃は強かったそうです。

1歳上の姉がいたことが何よりの救いだったかもしれません。

なんとか、10か月元気に育った私は自宅に戻りました。

やっと我が家に戻ったのもつかの間、帰宅してすぐ風邪にかかり肺炎退院して2週間で再入院になりました。

ミルクの量が決められていても、まだ欲しいと泣く娘。毎日のように夜泣きに悩まされたそうです。

父の職場の狭い官舎にいた母は、 父が仕事で不在の日はよく実家に帰宅していたそうです。

幼少期〜小学校時代

そして幼少期、一時は自閉症ではないかと疑われていたこともあるぐらい言葉を話さなかったそうです。

しかし身体は小さいけれど目に見える後遺症・障害もなく元気に成長しました。

そんな誕生エピソードもあり、祖母や母からは「あなたは人に助けられた命なんだからね」「恩返しが必要よ」と言われて育ちました。

そのせいか、小学校の卒業文集では「小児科の看護婦さんになりたい」と書いてました。

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